羊蹄丸 最終公開
本州・青森と、北海道・函館の間を長年結んできた青函連絡船が廃止されたのは、青函トンネルが開通した1988年(昭和63年)3月のことだった。
最終期には、旅客シェアの大部分を航空機に奪われ、ローカル需要と貨物列車の航走が主な任務となり、最盛期の面影もなく寂しいものであったが、船の旅という旅情の喪失を残念がる人も多く、廃止を惜しむ声も少なくなかったという。
この当時の私は、中学から高校に進む時期で、廃止までに乗船する機会はもてず残念であったが、廃止の年の夏に、「世界食の祭典」「青函トンネル開通記念博覧会」の協賛イベントという形で、期間限定で復活運行がされ、その際に乗船の機会を得ている。(以前の紹介記事)
その復活運行の際に使用されたのが、羊蹄丸と、十和田丸の二船。
私が乗船したのは十和田丸で、羊蹄丸の姿は、津軽海峡のど真ん中ですれ違った際に見ただけ。
両船共に、赤錆だらけの船体でお世辞にもキレイな状態ではなかったと思う。

廃止時点で使用されていた船は十隻近くあったように記憶しており、当時はソラで全部の名前も言えたものだが、さすがにもう殆ど忘れた。
その後、十和田丸はリゾート船へと改造されたものの、後に解体処分。
その他の僚船も殆どが国外へ売却されてしまい、現在国内に残っているは、羊蹄丸、摩周丸(函館港で展示中)、八甲田丸(青森港で展示中)の三船。
そのうち羊蹄丸は2011年(平成23年)まで東京の船の科学館で展示されていたのだが、こちらでの展示が終了となり、リサイクルの研究の為に、解体処分という運命をたどることになった。
そして2012年(平成24年)春に愛媛県新居浜港へと回漕され、この地で期間限定の最終公開が行われた。

船の科学館時代に見学する機会がなかった私は、最後ということもあって、愛媛県まで足を伸ばしてきたので、以下で写真などを紹介したいと思う。

5月日曜某日の早朝、新幹線の相生駅へ。
本当は、しまなみツーリングを兼ねて、一泊くらいの日程をとりたかったのだが、どうしても連休がとれない・・。

いつもながら素寒貧とした相生駅新幹線ホームに滑り込んできた、下り始発列車のこだま号。
ここから乗り込んだのは、僅かに数人。
以前はホームに売店があったと思うのだが、駅弁業者が倒産したあと撤退したらしい。
そういえば、パタパタ君(フリップ式の列車案内表示機)もいつの間にかなくなってるなあ。

岡山で松山行きの特急に乗り換え、伊予三島で普通列車に乗り換えて、新居浜駅の一つ手前の多喜浜駅へ。
多喜浜は無人駅で、建物のうち、駅機能は右端の待合室のみ。大部分は賃貸物件となっていて、飲食店が入居していた時期もあったようだが、今は空き家で、いかにも寂しい。


再会
多喜浜駅からテクテクと歩くこと20分、懐かしい姿と再会。
上にも書いているが、昔の記憶では赤錆だらけであまり良い印象はもっていなかったのだが、その後に何度か補修や再塗装を受けており、当時程ひどい状態ではない。
当時の十和田丸もあまり良い状態ではなかったと思うが、十和田丸は明るい白と、鮮やかなオレンジの塗色をしていて、くすんだ地味目の色である羊蹄丸よりも印象が良かったのかもしれない。
それに実際乗船した(更に宿泊もしている)という、贔屓目もあったのかもしれない。

いざ入口にまで着いてみると、なかなかの盛況ぶり。
受付が混乱しないように、観客を区切りながら入場させているようで、ここでしばらく並ぶこととなった。

煙突に付く赤いマークは、JNR(国鉄)マーク。
国鉄が民営化されたのは1987年(昭和62年)のことで、連絡船廃止までの一年間は、JR北海道の黄緑色のマークを掲げていた。

今回の公開は、「新居浜市制75周年」と「新居浜高専50周年」記念のイベントとして開催されており、その垂れ幕がかかる。

船内に入り、展示ルームへ。
船の科学館時代から、そのディープさで有名だった、マネキンルームへ。
昭和30年代の青森駅を再現したというセットには、当時の姿格好をしたマネキンが多数配置されている。
しかも、観覧客はそのマネキンと同じ場所にまで立ち入ることが出来るので、何ともいえない不思議な雰囲気が漂っている。

船体は解体されるものの、セットとマネキンは青森港で展示されている八甲田丸に移設されることが決まっており、「彼ら」は無事に生き残ることができそう。

後甲板では、スチームトレインが子供サービス。
連絡船とは何の関係もないが、市と高専のイベントとして開催されているので、他にも地元関連のイベントが多数企画されていた。
世話をしているのは高専の学生さんだね。
他にも運営・案内役として学生さんが多数参加していた。

背後のイルカのマークは、最末期の連絡船に付けられていたシンボルマーク。
イルカは各船共通のデザインであるが、丸の中に書かれたイラストはそれぞれ固有のものとなる。
羊蹄丸の場合、船名の由来である「羊蹄山」をあしらったデザインとなる。
ちなみに十和田丸は「十和田湖」、どれもお堅い国鉄らしからぬデザインで、とても可愛らしく、記念撮影の格好のモチーフとなっていた。

操舵室
ここらへんの展示はあっさりしたもので、詳しい説明書きなどはなかったように思う。
現役当時の資料や、写真パネルを公開しているスペースもあったが、写真は撮ってないです。
現役当時の一般船室なども、改装の際に失われたのか現存していない模様。

グルリと船内を回って、十分に満足して退出。
解体されてしまうのは残念だが、それはまあ仕方がないところ。
羊蹄丸なきあと残る青函連絡船は、青森の八甲田丸と、函館の摩周丸のみ。

保存する以上経費がかかるのは当然であり、船体が大きく多額になることもあり、どちらも順調な運営とは行かないようで、今後の見通しは必ずしも明るくないという。まあ、可能な限り残していってもらえればと思う。
同じく国鉄連絡船の主要航路であり、同時期に廃止となった宇高連絡船(岡山宇野港・香川高松港間)などは全船が海外へ渡り、国内に現存しないことを考えると、まだ恵まれているといえるのかも知れない。

帰りは再びテクテク歩きで多喜浜駅まで。
ガラ空きの普通電車の中で、疲れがどっと出て爆睡。
終点の観音寺駅で岡山行き特急に乗り換え。
再び爆睡して、瀬戸大橋は夢の中で通過、岡山で新幹線乗り換え相生へ、東京行きなので、今度は爆睡するわけにもいかず、必死に眠気をこらえて、なんとかクリアー。
遠出というほどではないが、ちょっとした日帰りの小旅行を終えた。

写真は観音寺駅に入ってくる、特急しおかぜの振り子電車。
最近あまり見かけない、和装の奥様の姿がなかなか良い。
この電車は、車体が傾斜する構造をもっており、カーブでも高速で通過できるという電車で、乗っていると傾きが感じられて面白い。

ここからは今回以外の写真。

これは1993年(平成5年)、北海道へ旅行に行った際に見学した、函館の摩周丸での写真。
やはり後甲板のシンボルマークの前で記念撮影をしている。
2月で観光のオフシーズンということもあり、人影もまばらで寂しい感じがあったことを覚えている。

当時私はピッチピッチちゃっぷちゃっぷの20歳。
この当時は自分が40歳になるなんて思っても見なかったなぁ、髪がたくさんあって、あごがとがるほど痩せていた頃が懐かしい。

青森港で公開中の八甲田丸。

こんな写真では何が何だか分からないと思うが、心の清い人には船の形がはっきりと見えるはず。
見えない人は考えてはいけない、心で感じ取るのです。

昨年(2011年)に、20年ぶりぐらいに青森へと行く機会があったのだが、社用で、しかも夜行で行って、一泊した後始発で戻るという強行軍。
所用を終えて青森駅にまで戻ってきたときには日も暮れて、当然八甲田丸の観覧時間も終わっていて、見学はできず。
港の離れたところから、かすかに見えるシルエットを見るだけで終わった。
残念。

ここからは、1988年(昭和63年)に撮影した写真を蔵出し。
元の写真が良くない上に、変色や痛みが目立つ代物であるが、比較的マシな何枚かをお見せしたい。
最初は十和田丸とすれがう羊蹄丸の写真。

青森出航直後、十和田丸の甲板から写した八甲田丸。

十和田丸のシンボルマークと、一般船室の様子。
夏休み期間中だったこともあり、乗船率はそれなりに良かったと思うが、大混雑というほどではなかったように思う。

函館港で係留されていた空知丸と檜山丸。
これまで紹介した、羊蹄丸などよりも後から登場したシリーズで、系統が全く異なる。

羊蹄丸が津軽丸型と呼ばれるシリーズなのに対して、これらは渡島丸型とよばれており、旅客扱いをしない貨車の航走専用船となっていた。
但し、檜山丸は後年改造されて、旅客扱いもするようになっている為、オリジナルのままであった空知丸とは、大きく外観が変わっている。

ここら辺も含め、詳しいことは検索したほうが幸せになれます。
いずれも海外へと旅立っていったそうです。

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