みっちゃん
私の親父のいとこにあたる人に、「みっちゃん」という人が居る。(男性)
親父と歳が近く、近在ということもあり、幼少時から家ぐるみで親しくしてもらっている。(両人共に太平洋戦争で父親を亡くしている)
学校を出てからは、父は電気工として、みっちゃんは自動車整備士として就職。みっちゃんはその後に営業職へと転進して、つい最近まで、いすゞ自動車のディーラーマンとして活躍していた。
世話好きで大変優しい人なのだが、ぶっきらぼうな話方をするし、結構ストレートな物言いをする人なので、営業職に転進するときは、父も含め周囲がかなり心配したらしい。
当初は乗用車の販売担当でかなり苦労をしたと聞いているが、大型部門に入ってから頭角を現したらしく、定年まで立派に勤め上げ、ちゃんと肩書きが付いた役職にもついていたので、有能なセールスマンだったことは間違いないらしい。

トップの写真は、みっちゃんの若かりし頃の後姿。
この人は昔から今に至るまで、いつも丸刈りのヘアスタイルをしており、後頭部だけだと今も変わらない後姿をしている。
この写真は、父の兄弟3人と、みっちゃんの4人でドライブ旅行に出かけた時の写真。
1968年(昭和43年)4月というキャンプションが付いている。
クルマはみっちゃんのコロナハードトップ、左端に僅かにシフトレバーが写っており、コラムシフトであることが分かる。
コロナのコラムシフトは、シフト操作のロッドが接合部で動きにくくなることがあり、その度にボンネットを上げて、ロッドを直接ガチャガチャ動かして動くようにしていたとか。

一番手前の人物が、上の写真から43年経ったみっちゃん。
全く同じとはいかないが、後ろ姿はあまり変わっていないように見える。
みっちゃんの前を歩く人が、私の父親。
みっちゃんは「たっちゃん」と呼ぶ。
「たっちゃん」といっても、タッチの日高のり子みたいな甘美な発音ではなく、先頭と語尾にアクセントを置く、豪快な発音。
じゃりん子チエのカルメラ兄弟が「テッちゃん」と呼ぶ、あの発音が一番近い。
この二人は、みっちゃんの方が一歳年上なのだが、頭髪が落ち武者のようになってしまった親父に比べると、みっちゃんはさほど薄毛にもならず、色もまだ黒々としている。
親父にそのことをいうと、「手前らが苦労をかけてきたからだろうが」と大変に怒られてしまったことがある。
ちなみに親父の前を歩く人は、毛髪が全くないつんつるてんであるが、この人は坊さんなので、親父の頭とはまた話しの次元が違う。
去年の法事の時に撮った写真の一枚。

再びドライブ写真へと戻って一枚。
鳥取から大山の方へと泊まりでドライブしたらしく、ホテルをチェックアウトした際に撮った写真の模様。
勇ましく発進するコロナハードトップ、周りにはファミリアとスバルの姿も見える。
みっちゃんは前述のようにいすゞ販売会社に勤めておられたのだが、トヨタに乗っているということは、当時はまだ別の会社におられたのかもしれない。

長年自動車に携わってきたプロということで、親父がクルマを買う際は、まずみっちゃんに相談するというのが我が家の決まりとなっていた時期があった。
欲しいクルマがトヨタだろうが、ダイハツだろうが全くお構い無しで、クルマが欲しいと相談するとあっという間に各社のカタログの山を持ち込んでくれるし、欲しいクルマが決まると値段の交渉までしてくれるのである。
これは「業界関係者」「いすゞ関係者」としての顔ではなく、全く私人の立場でディーラーに行ってくれているのだとか。
自分自身がプロのセールスマンとあって、あの手この手で値段交渉をしてくれるのらしい。
思えば私が最初のクルマを購入したときも、みっちゃんに同行してもらって中古車ディーラーめぐりをしたものだし、中古でレガシィを買ったときも、みっちゃんに相談してチェックをしてもらったことを思い出す。
しかし、そこまで世話になっておきながら、薄情にも我が家ではいすゞ車を購入したことが一度もない。
ここらへんはあっさりしたもので、「気に入るクルマがないなら買わなくていい」と言って、無理強いをするようなことは一度もなかった。
これは結構偉いというか、すごいことのように思う。

強いて言えば、一度だけ雑貨のカタログブックを持っていたので、そのなかから親父が自転車を買ったことがある。
このときも世話になっているのだからと、父のほうから無理やり販売カタログを引き取って来たような話を聞いている。
この雑貨カタログは、いすゞディーラーが扱っていた副業だったのか、みっちゃんが個人的にやっていたサイドビジネスだったのかは知らないが、いすゞのディーラーマンから買ったのだから、私は「いすゞの自転車」と呼んでいた。
私が通学自転車として使っていたのだが、当時珍しかったベルトドライブの自転車で、価格的にも結構高いものだったような記憶がある。
世がバブル景気にわいていた、1989年(平成元年)秋のこと。

もう一枚は、私の父親とコロナのスナップ。
コロナはよくよく見ると、色んなアクセサリーが付けられている様子が分かる。
ミラーはタルボットタイプ、今はへたくそ棒と揶揄されるコーナーポールも、当時は高級なおしゃれ装備品。
ハイビームランプは、カラーレンズが入っているらしいが、モノクロ写真では色の判別が出来ず残念。
キャップレスホイールは、ちょっと硬派な走り屋さん風味だったのかな。

私も色々と世話になっているみっちゃんであるが、私の子供の頃は、ぶっきらぼうな所が少し怖く感じていた時期があった。
営業マンなので、営業の途中に我が家にも度々立ち寄って来ていた。
面白いことに、この際に乗ってくるクルマが毎回のように変わっていた。
これは下取りでよさそうなクルマが入ってくると、すぐに乗り換えてしまうからだそうで、大げさな話ではなく何十台も乗り継いでこられていると思う。
私の物心ついたころは丸目のフローリアン、その後は角目のフローリアンディーセルが何台も続き、昭和末期からはずーっとアスカディーゼル。
いすゞが小型車の自社開発から撤退したころからアスカが手に入らなくなり、FFジェミニをはさんで、ほどなく最終型のジェミニディーセルに、平成二桁前後からは代替のペースがグッと落ちて、アスカ(アコード)を代替せずに長らく使っていた。
一度だけであるが、左ハンドルのどデカイ外車、オペルオメガに乗ってきたことがあり、家族一同でビックリ仰天したことがある。
オペルはバブル期にいすゞ販売会社が扱っていた時期があり、かつて売ったクルマが戻ってきたのかもしれない。

そうやって我が家にやってきていたみっちゃんであるが、彼は酒もタバコも飲まないので、お茶と祖母(彼には叔母だな)が漬けた漬物をお茶請けによく食べていた。
ある時などは、採れたての生のレタスが非常に気に入ったらしく、生で大皿いっぱいのレタスを食べつくして、更におかわりまでしていたことがあり、小さかった私と弟は非常にビックリして、さらに笑い転げた覚えがある。
それからみっちゃんの愛称は「レタスのおっちゃん」ということになり、かなり後年になるまでその呼び名を使っていたことがあり、懐かしい。
そのほかにも色々と面白い話があるおっちゃんなのだが、さすがにここまで読んでいる人もいないだろうし、私も飽きたのでここらへんでやめておく。

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