ジャーニー
アンパンモキヤネン
前回に続いて、いすゞジャーニーSの紹介。
これも前回と同じく、祖父が働いていた製材所の送迎車。
前回の赤帯のタイプはハッキリと覚えているのだが、今回の青帯タイプは覚えているような、いないようなで、記憶は曖昧。

ポーターキャブの前で、小粋なポーズをつけているのは私の祖父。
プリントの枠に記された年号から、1974年(昭和49年)頃に撮られた写真のようで、祖父が60歳前後の頃だろうか。
伐採の現場で撮影したもので、背後に広がる山は伐採終了後でつんつるてん状態。
祖父は戦後まもなくからキコリとして働き、70歳を過ぎるまで現役で伐採作業にあたっていた。
引退してからも非常に元気で、田畑の作業、私有林の手入れと長らく力仕事をこなし、80歳を過ぎてなお、枝のない杉の立ち木にロープ一本で登っていくのには(ロープをタスキ掛けにして上がってゆく)、驚くというよりも、正直あきれた。
晩年まで老眼鏡なしに新聞を読んでいたが、これは実は見ているだけで読んでいなかったという説も有り、家族内でも議論が分かれたところ。
そんな、不死身かと思っていた祖父も、90歳を超えてからはさすがに弱り、今年の2月に94歳で亡くなった。
祖父の勤め先であり、家の隣に有った製材所も既に廃業してしまい、全ては記憶の中だけの存在となった。

前から見ると、エルフルートバンとの区別がつきにくいジャーニーであるが、後部から眺めると随分と雰囲気が違う。

前回紹介したジャーニーは、バンモデルの後部扉を固定化しただけの愛想のないデザインであったが、このモデルでは3枚のガラスを組み合わせた、手の込んだスタイルをとっている。

後部客室のドアは、スライドドアではなく、片開き式。
ドアの右隣にはエンブレムらしきものが確認できる(赤矢印箇所)、この後にも使われる「JOURNEY」というエンブレムと同タイプであると思うのだが、確信はなし。

同時期のエルフルートバンの廃車体。
テールランプの部分は、全く同じデザインであることが分かるが、後退灯はどこに付いてるのかな?

青色の塗りわけ方、塗りの位置も違っているようで、ルートバンは足回りだけを塗った、極単純なツートンカラーとなっている。
それぞれいろいろと興味深いが、如何せんこんなボロボロで、しかも寝転がった状態では、見比べる楽しみが味わいにくいのが残念。

何でわざわざ横転させているのかは不明。
この時期、ルートバンは既にスライドドアを採用しており、大型のサイドドアが目に付く。

スライドドアの方が、乗降時の開放固定がしやすく、中腰になりがちな車内からの開閉も容易だと思うのだが、ジャーニーSがスライドドアを採用するのは次代モデルから。
但しスライドドアが一般化するのは、1970年代に入ってから、しかも急速に普及したということもあり、必ずしもジャーニーが時代遅れだったというわけではない。

おまけ

やはり同じ製材所で使っていた送迎バス。
手元にある自動車ガイドブック1964-1965で、同型車が一車種紹介されている。
単一グレードだったのかどうか確認のしようがないのだが、とりあえず引用すると、形式BLD11、ディーゼル2207ccエンジン、21人乗り。
運転席のドアは後ヒンジの前開き、Aピラーに乗降用のグリップ、扉の下に足掛けステップが写っている所に注目。

ジャーニーSや、その前進であるエルフマイクロバスよりも一回り大きな車体で、1980年代に活躍するジャーニーM/Lシリーズにつながるモデル。

写真の撮影時期は不明。
前列左端が私の祖父、他の人たちも全て村内の人ばかりで、故人の方もいらっしゃるが、いずれも非常に若い(あたりまえか・・)。

この製材所の送迎バスとして、都合3台のクルマを紹介したわけだが、系列として並べると、いすゞBLバス・初代いすゞジャーニーS・2代目いすゞジャーニーSとなる。
更に初代いすゞファーゴ・ニッサンキャラバン(OEMのファーゴだったかもしれない)が続いたと記憶している。
この会社はいすゞとの付き合いが深く、フォワード、ファスター、エルフもよく使っていた記憶がある。

前述のとおり、この会社は既に廃業済み。
昭和50年代から、国内材よりも、輸入外材を加工する事がメインとなっており、平成に入ってからは不況もあって経営は苦しかったらしい。
この写真が撮られた1970年代は、まだまだ国内林業が盛んで、製材所も羽振りが良かった頃だと思う。

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