![]() 我が家と、軽トラ
我が家の軽トラについては、ポーターキャブとハイゼットの紹介ページで何度も紹介しているが、体系づけた記録を作っておこうということで、一応独立したページを作っておくことにする。
我が家に軽トラが来たのは昭和50年前後、このへんの兼業農家としては比較的遅い導入ではないかと思う。 導入が遅れたのは、主として農業に従事していた祖父母が、免許を持っていなかったことが大きい。 我が家の田んぼは家から離れたところに、分散して存在していたこともあり、人力での作物、用具の運搬はさぞかし苦労であったと思うのだが、昔々から人力でやっていたことだけに、祖父母はあまり不便を感じていなかった節がある。労働を苦と思っていない、サイボーグみたいな人なのである。 |
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前述のとおり祖父母は免許を所持しておらず、農繁期に帰省する父か、叔父しか運転できなかったので、稼動は年に数回程度。こんな状態なのでエンジンの調子はいまひとつで、バッテリーの上がりもひどかった。 私が幼稚園くらいのときだろうか、叔父のひざの上に座り、ハンドルをグルグル回させてもらったことはよく覚えている。 この時期既に同型空冷タイプのポーターキャブは殆ど見なくなっており、赤一灯式のテールランプが珍しく、ヘンテコリンな軽トラだと思っていた。 写真は同型車、残念ながらオリジナルの写真は残っていない。 ( ? 〜 昭和56年 ) |
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![]() 当時免許とりたててであった母に、年代物の軽トラックは非常に扱いにくい代物であったらしく、中古でニューポーターキャブを購入。 父の幼馴染であるモータース屋の斡旋で、ブランドについては特に指示しておらず、再度ポーターキャブを選んだことに理由はなかった模様。 母の日常の足として、私達兄弟2人を乗せて、町内をよく走り回ったものである。子供2人とは言え、3人乗り運転は当時としても違法であったが、一度も咎められたことはなかった、シートベルトの着用義務さえなかったころである。今思えば危険なことこの上ないが、今となっては懐かしい思い出話である。 平成元年にダイハツハイゼットに買い替えたが、下取りには出さなかったため、短期間ポーターキャブとハイゼットの二者が同居していた時期がある。この時期にポーターキャブを使って、運転の練習をさせてもらった。ステッキ式のサイドブレーキを使って、坂道発進の練習までしたのは、私の世代では珍しいかもしれない。 最後は親戚へ譲渡、車検期間満了まで使用して廃車とした。 ( 昭和56年 〜 平成元年 ) |
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このクルマでもたーっぷりと運転の練習をしたこともあり、教習所の実技試験では失敗することもなく卒業。免許取得後は、近隣への便利な足として頻繁に使ったものである。 ハンドルの遊びが大きく、常に右か左にハンドルを切って当たりを付けているような状態。直進安定性も語るのが恥ずかしいような代物、加速の鈍さといい、運転は面倒で遠出をする気にはとてもならない車であったが、結構なお気に入りで、なにかとよく引っ張り出していた。 我が家では初めての4WDモデルであり、初めて雪道で乗ったときはその威力にとても感心した。父には内緒であるが、作業林道みたいなところに入り込んでしまい、スーパーローを使いながら半泣きで脱出したことがあった。 15年使ったところで次期モデルに代替。 走行は4万5千と少なかったが、雑に使ったこともあり、いろんなところが破損したり錆びていたりで、ボロボロという感じであった。 ( 平成元年 〜 平成16年 ) |
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年度末3月の登録となっており、販売会社登録の在庫車を購入したらしい。 エアコン、パワステ、オートマチック、ツイカムエンジンとまことに立派な軽トラらしくないモデルなのであるが、乗ってみた印象は大したことがないように思った。 十何年ぶりか新車ということもあり、期待が大きかったということもあったのだろうが、劇的な変化というものは感じられず、拍子抜けという感じ。こんなことを書くと、おまえはいったい何を期待していたんだと突っ込まれそうだが。 今の私は実家から離れて住んでいることもあり、この車には購入以後数えるほどしか乗っていない。 主に父が使っているようだが、以前のメインユーザーであった母は、もっぱらアトレーの方にシフトしたようで、距離はあまり伸びていない模様。 あまりにも乗らなさ過ぎて、初回車検の期日を過ぎてしまい、慌ててキャリアカーを呼んで継続車検を受けたことがあった。 ディーラーの方もダイレクトメールの一本もよこさないとは、なんともノンキな話である。 ( 平成16年 〜 現在 ) |
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