手柄山 今昔
姫路大博覧会 HIMEJI GRAND FAIR 1966

今回公開された姫路モノレールと関係が深いのが、地方博の走りともいわれる「姫路大博覧会」。
そもそも姫路モノレールは、姫路博の輸送機関ということで整備された乗り物であり、姫路博の目玉商品でもあった。(但し、モノレール建設が遅れたため、開業は開会式後であった)
姫路博開催時にはものめずらしさもあって大いに混雑したモノレールも、博覧会終了後は閑古鳥。
非常に先進的な取り組みではあったものの、姫路市という都市規模、手柄山・姫路間という立地条件から考えると、やはり無理があったというべきであろう。

その姫路博についてであるが、40年以上前の地方博ということで、資料が非常に乏しい。
それでも近年は、ネットに当時の写真があがっていたり、wikipediaに詳細がアップされたりと、、断片的に情報が得られるようになってきている。(全くえれえ時代になったもんだにぃ・・。)
とにもかくにも、私も負けじと写真を探索し、我が家にいくらか残っている姫路博関連の写真を中心に、昔の手柄山の様子を紹介してみたい。

トップのキーホルダーは姫路大博覧会時のもの、デザイン化された姫路城と、白鷺城にちなんだ市の鳥、白鷺の姿がデザイン化されている。下側、銀色で1966の文字を抱き込んでいるマークは、姫路博のシンボルマーク、姫路の「h」をデザイン化したものだろう、多分。
昔のキーホルダーって、みんなこの金具だったよねー、最近はキーホルダー自体買わなくなったから、どんな形なのか知らんけど。


昭和41年(1966年) 平成21年(2009年)
姫路博メインゲート
姫路博の名が大書きされた、メインゲート。
手柄山の東端、現在歩道橋が立っているあたりから撮影したものらしい。
左上に少し見えている建物は、現在も姫路植物園の建物として現役。
このゲートの奥に見える橋の上から、ゲートの裏側を撮影した素敵な写真が、姫路新興書房の壁面に展示されていた時期があったが、今はもう無い。

昭和41年(1966年) 平成21年(2009年)
ちぎり橋
上の写真にも写っている架け橋。
手柄山の南側と北側を結ぶ橋で、名は「ちぎり橋」、建造は昭和34年と記してあり、姫路博以前から存在していたもの。
そもそも手柄山公園は、都市公園として、戦災慰霊公園として整備されていたものであり、各種文化施設が集まる姫路市の文化ゾーンとして計画されていた。

左側写真は姫路博当時の写真、会期は2ヶ月と短期間であったが、入場者は150万人といわれ、非常に多くの人出があった模様。

昭和40年(1965年) 平成21年(2009年)
ちぎり橋
姫路博開催前年の昭和40年(1965年)の撮影、北側から撮影したもので、橋の向こうは今の植物園がある場所となる。
左側写真に写るのは、若き日の母と、その友人。
向こう岸に建っている看板の文字が読み取りたいところだが、残念ながら原版でも読み取りはできず。
現在撮った写真では、周囲の樹木が大きく延びて、橋の全景、また向こう岸の詳細を確認することが出来ない。
橋のたもとに立つ樹は、当時のままだろう。
右側に何故か現在は裸婦像が立つ、イャンエッチ。

昭和40年(1965年) 平成4年(1992年) 平成21年(2009年)
ちぎり橋 その2
これは一枚余計な写真が入る、真ん中は当時、学校の同級生であったT君、H君と撮った写真。
当時三馬鹿トリオなどと呼ばれた仲間であるが、未だに腐れ縁が続いている。空恐ろしいことに、この3人が、3人とも未だに独身。

本題に戻すと、左2枚の写真では、橋はほぼ原型をとどめていて、当時のままの姿であることが分かる。
反面右2枚で比べると、橋の端の欄干が交換されており、床面は化粧タイルが貼られ、古風な街路灯も姿を消している。
最近になって交換されたのであろう。
この橋の北側には、野外音楽堂があったが、これも今はなく、庭園に再整備されている。

ちぎり橋という名前について、私のような低脳はチギリというと、ブッチギリとかいう単語しか連想できないわけだけど、「ちぎり」の由来は「契り」なんだろうね、多分。

昭和40年(1965年) 平成21年(2009年)
お城
今も残る西洋風(なのか?)のお城風(なのか?)というか、とにかくなんだかよく分からない建物。
手柄山には、同じような意匠の建物が、当時のままたくさん残っており、不思議な雰囲気をかもし出している。

左側写真は姫路博開催前年の、昭和40年(1965年)4月に撮影されたもの。
これらの建物は、姫路博のパビリオンとして整備されたものと言われているが、かなり早い時期から建設が始まっていたらしい。
姫路市の資料でも、手柄山駅の竣工は昭和39年(1964年)となっており、この時期には既に形が出来上がりつつあったことが推測できる。

博覧会の「パビリオン」というと、仮設のプレハブのようなもので、会期後に撤去されてしまうようなものをイメージしてしまうが、手柄山のそれは、コンクリート造りのがっしりとした建物であり、会期後も公園施設として利用することを前提にしていた模様。
今もそのままに残っているとは言うものの、中はガランドウで、せいぜい展望台として、オブジェとして位しか利用できていない。
そもそも部屋がいくらも無い上に、とても小さいものなので、有効活用の仕様がないのが現実だと思う。
博覧会当時は、どんな活用方をされていたのだろう。

現在の写真では、目の前に大きな樹が生えており、同じアングルからでは建物の全景を望むことができない。(樹を避けるため、さらにアングルを右に振っている)

昔の写真では、右手後方に手柄山駅屋上の展望室が見えている。
こちらも比較的後年まで残っていたが、晩年は屋上のタワー状の構造物が取り除かれた状態となっていた。
今は姫路市の施設、「緑の相談所」が建てられている。

昭和40年(1965年) 平成21年(2009年)

慰霊塔参道階段
昭和31年(1956年)、戦災慰霊塔建立時に、参道として整備された立派な階段。(慰霊塔については、別項で紹介する)
今は自動車の利用者が多く、元々人影の薄い公園ということもあって、あまり利用している人を見たことがない。
新旧の姿を見比べると、中央に手すりが設置された以外、変化が見られない。
現在の写真でも、女学生の姿でも見られれば、良い雰囲気になるのになー。

文章左側の写真は、公園整備当初の写真。
左側建物には、「休憩所」という説明が付いている。
この建物も平成初頭まで現存していたと思うが、今は「平和資料館」に立て替わっている。

昭和41年(1966年) 平成21年(2009年)
回転展望台
写真後方に写るのは、姫路博での、モノレールと並ぶ大型目玉商品「回転展望台」。
ロスァンヂェルスの空港の管制塔をモデルにしたとかで、実に面白い姿をしている。
円形になった展望フロアは、テーブルセットが設置された床が動き、座ったままで360度の展望を楽しむことが出来る。
姫路博終了後、長らく閉鎖されていた時期があり、私が子供の頃は、モノレールと相並ぶ不気味な廃墟と化していた。
その後再整備されて復活、今も営業中
私の記憶違いだったらしく、ずっと営業は続いていた模様。現在も営業中
手柄山に行くのなら、是非ご体験あれ。(話のネタにはなると思う)
(追記 展望フロアの喫茶店は2017年春に閉店されました)

上の二枚は、撮影地点がかなりずれている。
左は姫路博開催時の写真であるが、姫路球場付近から撮ったものではないかと思われる。
現在同じ場所から撮影しようとすると、大きく育った樹が邪魔になり、展望台の姿がうまく捉えられないので、比較的雰囲気が近いところで撮影した。

昭和41年(1966年) 平成21年(2009年)
手柄・姫路市立図書館
左は姫路博開催当時の、父の記念写真。
後方の建物は当時の姫路市立図書館本館、右手に姫路市立科学館の建物が僅かに写っている。
科学館には、当時姫路博事務局が設置されていたらしい。
図書館、科学館共に子供の時からよく通っていた施設であるが、図書館は姫路城脇の城内図書館へ、科学館は青山に移転。
その後大規模な再整備が行われたため、当時の面影を感じるものは何も残っていない。

現在の写真を撮った位置はテキトー。
この谷間を上がるとモノレール手柄山駅へと至る。
今回の見学会では、ここから搬入されるモノレールの写真が展示されていた。将来的には、モノレールをここから南進させる構想があったようだが、具体化しないままに夢潰えている。

平成9年(1997年) 平成21年(2009年)
北展望台から
左側写真はモノクロであるが、実は平成の写真。
興味本位で買って、試しに撮ってみた写真。色がついてないとつまらんので、この一本ですぐにやめた。

上でも紹介した、おなじみのお城風建物が写りこんでいるが、意外にも大きく姿を変えている。
建物に付属していたテラス部分が大きく削り取られて、芝生の広場となっている。
手柄山では、同様の改修方法が何箇所か確認できる。老朽化した部分や、危険と思われる箇所を撤去しているのだろうか。

テラス奥側の建物もいつのまにか撤去されて、下を走る山陽本線の線路が見えるようになった。
さらに奥手には姫新線と、新幹線の高架が見える。
平成9年の写真では、キハ58の四連が写っている、いくらでも見ることが出来たキハ58も、姫路口から退場して久しい。
平成21年には新鋭キハ127系気動車が投入され、活躍をはじめている。